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2019-09-08

フィットネスの現在地とこれからを考える

現在、自分はパーソナルトレーナーとしてフィットネスの世界に身を置いているのですが、ここにきてフィットネスの在り方自体が時代の変遷と共に大きく変わりつつある様に感じております。

そんな現在のフィットネスが置かれた状況を『運動理解』と『運動環境』という二つの側面から概観してみようと思います。

運動理解の変遷

まず運動指導に関わる人々にとっての『運動理解の変遷』について。

これまでフィットネスの現場においては、『筋の発達こそ健康的なカラダ作りに寄与する』という考え方が主流でした。

そんな考えのもとに行われるトレーニングは主に筋力向上のためのトレーニングです。

フィットネスクラブに入会すればまず最初に体組成を分析し、その測定結果をもとにして筋力が低いところを重点的にメニューを組んでいく。マシンやバーベル、ダンベルなどの器材は効率的に筋力を高めることに特化したものと言えます。

加齢や運動機会の減少と共に衰えた筋力をトレーニングを通じて取り戻していく。これが従来のフィットネスの在り方であり、運動指導に関わる人々の運動理解でもありました。

ストレングスからパフォーマンスへ

それが近年になり、筋力至上的な考え方に一つの転換が訪れます。

それは、“ストレングスからパフォーマンスへの移行”です。

筋力を高めたとしても、その筋力を正しくコントロール出来なくては運動の意味がありません。大切なのは自由に自分のカラダを動かせること。いわば動作スキルの向上です。

そもそも、これまでパフォーマンスというものは具体的に定義することが難しく、それ故にフィットネスの現場では単純明快な指標である『筋力』に頼った運動指導が主として行われてきた経緯があります。

それが近年になり、海外を中心に様々なパフォーマンス評価のための手法が考案されるようになりました。

具体的には各関節ごとの筋活動の連動性や関節可動性、体幹の安定性などパフォーマンスを形作る様々な要素を複数の運動テストを通じて評価、分類し、その分類されたパターンごとに一対のエクササイズを提供するというものです。FMS(Functional Movement Screen)やDNS(Dynamic Neuromuscular Stabilization)、PRI(Postural Restoration Institute)などがその代表と言えるでしょう。

こうした手法が取り入れられる事によって、一人一人のパフォーマンスを短時間で評価し、その結果ごとにより最適化されたエクササイズの提供が出来るようになりました。そうしてこれらの考え方をベースとしたトレーニングの手法は、ファンクショナルトレーニングなどのキャッチーな言葉を借りて世間へと広く普及していきます。

感覚統合の世界へ

しかしこの運動理解にも限界が訪れます。パフォーマンスを筋骨関節という要素のみに限定して理解する事には無理があったのです。

あらゆる運動は身体知覚という前提の上に成り立ちます。目や耳、肌を通じてバランスや位置を感じ、その中に私の身体という認識が生まれる。視覚・聴覚・平衡感覚・触覚・嗅覚などの感覚情報が脳内で統合された最終出力が運動なのです。これら運動と感覚の統合が出来ていなければ、平衡感覚不全や異常筋緊張、交感神経系の過剰な反応による不調や怪我にもつながる恐れがあります。

こうしたことからも分かる通り感覚と運動は切っても切り離せないものです。

こうして筋骨関節のみで理解されていた運動の世界に感覚という新たな切り口が加わる事になります。それと同時に視覚システムや体性感覚システム、前庭システムなど各感覚ごとに評価の手法が体系化され、実際に運動指導の現場で取り入れられるようになりました。

ちょうどここが運動理解の現在地のように思います。

テクノロジーに包摂される未來

それではこの先はどうなっていくのでしょうか?

運動を要素分解して機械的に測定、評価、分類し一対のエクササイズを抽出する。こうした欧米を中心とする還元主義的な運動理解の手法は自動化技術やAIによって容易に代替可能です。

トレーナーの役割が単に動きを測定、評価、分類し、その結果に合わせたエクササイズを提示するのみであるのならば、それはやがてテクノロジーの発展とともに包摂されていくでしょう。

ここにきて還元主義的な運動理解の手法が限界に来ているように感じます。

人間だからこそ提供できる価値に目を向けない限りは、運動指導の現場にトレーナーが不要な時代も実はすぐそこまで来ているのかもしれません。

運動環境の変遷

次に、『運動環境の変化』について考えてみましょう。

運動環境における近年の大きな変化としては、エニタイムフィットネスに代表されるような24H型ジムの台頭があげられます。

今までジムというと、マシン・スタジオ・プール・更衣室にはシャワールームや入浴設備が整い、常にトレーナーが常駐している形式のものが主でした。

対して24H型ジムはスタジオやプール、更衣室の余計な水道設備を廃し、スタッフ対応は最低限の入会オペレーションのみに絞り、施設の安全管理は外注に。そうしたコストカットの徹底によって24H型ジムは急速に規模の拡大を続け、今はどんな地域であっても身近に通えるジムがある、まさにそんな状況です。

集団から個へ

フィットネスの普及という意味においては、24H型のジムは非常に重要な役割を果たしてきたと言えます。

ただその一方で、従来型の総合フィットネスクラブが果たして来たコミュニティのハブとしての役割は失われ、フィットネスの形もより個を強調したものへと移り変わってきました。

現在主流となっている24H型のフィットネスはエクササイズマシンと自分という2項関係のみで完結する世界と言っていいでしょう。

また、フィットネス環境が利用者のニーズごとに細分化されていく中で、施設内の多様性は失われ立場や世代間の分断も進みつつあるように感じます。

デジタル化するフィットネス

そうして個が強調される中、自宅に居ながらオンラインで運動体験を共有する類のフィットネスも産まれてきました。

米国発のインドア・サイクリング「Peloton」は、自宅に居ながらエアロバイクを通じて様々なフィットネスクラスに参加できる手軽さが受けて爆発的な速度でその規模を拡大しております。

その他アプリ上でのオンライン型の運動指導は既に日本にも広く普及しており、フィットネス市場のデジタル化は急激な速度で進んでおります。

フィットネスに取り組むにおいて、人と人とがオンタイムで空間を共にする必要はもう無くなってきているのです。

『人間らしさ』について考える

ここまで両側面から感じる変化について簡単にまとめてみました。

このいずれにも共通する私なりの問題意識は、現在のフィットネスの潮流には『人間らしさ』という足場が確立されていないという事です。

人間らしさの喪失

フィットネスに関わる私たちが運動という行為そのものを機械的に理解しようとすればするほど、そこに内包された生命のダイナミズムは薄まっていき、やがては見えなくなってしまいます。

フィットネスに取り組む環境を見ても、健康増進という目標達成のためにより効率的かつ効果的に運動に取り組めるように環境を最適化してきたはずの我々が、逆に環境によって自動化された振る舞いを強いられている。もし自らが作り出した環境によって逆に自らが最適化されているのだとするなら、これ以上の皮肉はないでしょう。

そしてこうした行く末にあるのは人間らしさの喪失に他なりません。

私の好きな言葉に「全人的復権」というものがあります。これは、”人間が人間らしく生きるためにその権利や機能を回復していく"という意味を持ちリハビリテーションの定義とされております。

本来リハビリテーションの現場で求められるこの言葉がまさに今フィットネスにも必要とされているのではないのでしょうか。

このまま『人間らしさ』という足場が確立されぬままに、テクノロジーや社会の変遷とともにフィットネスの在りようが漂流して行ったその先。そこにあるのはディストピア的な未来なのかもしれません。

問いと共に生きる

私たち人間が、人間らしくあり続けるために、フィットネスが担うべき役割は何なのか?時代の変化と共にフィットネスの在りようはどう変わっていくのか?そしてその中で何を残さなければいけないのか?

根本ともいえるこの問いについて考えることこそ私のテーマです。そしてこの問いに応えるためには『人間らしく生きる』とはなにか、即ち『人間らしさ』について考えてみる必要があります。

この問いの答えはフィットネス的な側面だけ考えていてもなかなか見えてきません。

生物の進化や発達。文化や芸術、思想の変遷。そういったより多面的な角度から、これまで人類が歩んできた歴史の連なりを通じて『人間らしさ』を理解していく必要があるのでしょう。

急速に変化し続ける時代の中で、変革や成長が促され常に新しさが求められ続ける。そんな現代だからこそいったん足を止めて、思惟を巡らせてみることが大切なのかもしれません。

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