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2020-05-26

『優しい社会』という名の甘く冷たいディストピア

コロナウィルスの脅威に端を発し、いよいよ社会が煮詰まってきた感がある。

 

SNS上での心ない中傷が一因とされる、ある方の死。

そして、それに端を発した誹謗中傷に関する議論の沸騰。

そんな最中に、政府やサービス提供事業者が発言に規制を加え、監視を強め、罰則を与える方向性で話が収束しようとしている。

世間がこうした流れを当然のこととして疑わないのは極めて危険な事のように思う。

そういえば、交わされる発言の中で気になったワードがあった。

『SNSはもっと優しい世界であるべきだ』

確かにそうであろう。人は優しい社会を望む。

ただし、それを実現するのは厳しい発言規制や監視体制、罰則などではない。

あくまで本筋は、そうした外側からの規制ではなく人間の内面に対する働きかけであるべきだろう。

本当の優しさとは、実社会で生きる中で、些細なことから傷つき傷つけ合うその痛みの経験の中から生まれるものだ。ひとは傷つくことによって他人の痛みを知り、そこで初めて思いやりの心をもつことが出来る。

優しさとは制度や規制によって保証されるものではない。

テクノロジーの整備と社会制度にとって傷つけない事を保証された社会とは、冷たく温度のない優しさに塗れたディストピアに他ならない。

 

一体何がこんな社会を生み出しているのか。これは私たちが強く求めた結果の社会なのか。

思うに、今のこの社会であることの訳とは意外と『なんとなく』なのではなかろうか。

インターネットの普及に代表されるように、近現代はテクノロジーの進歩によって革新されてきたと言える。

そんなテクノロジーを生み出してきたのはアナーキーな思想を持つイノベイター達だ。

既成概念という名の足場を持たないが故に世界に影響を及ぼすほどの技術革新を起こす事が出来たのだろう。そんな方々によって今の便利な社会は実現している。

そんな方々が作り出したテクノロジーの恩恵を預かる前に、それによって人間のどんな機能がどのように書き換えられているのか、果たしてそれが必要なものなのか、いったん立ち止まって考えてみる必要がある。

そうした考えなしに、『なんとなく』で様々なテクノロジーに安易にライドする大衆の意思によって今の社会は『なんとなく』形作られていく。

さらにテクノロジーの進歩によってもたらされた昨今のサービスは、とかく自分の頭で深く考えることを放棄させる仕組みで溢れているようにも感じる。

意見に対する賛同をワンクリックで示すための「いいね」。

それによってあたかも自分の頭で何か考えたように錯覚してしまう引用リツイートや記事シェア。

「興味深い」や「自戒を込めて」「面白い」「深い」「なるほど」など付帯して表記されるこれらのワードは考えることを放棄した証でもあるとも言える。

そうやって一歩立ち止まって考えることを辞め、仮初の『快』を与えてくれるテクノロジーの従者になり果てたその行先は、ヒトがヒトである所以すら失われた社会なのであろう。

そして悲しいかな現実はそんな社会へと急速に近づきつつあるように感じている。

これから先の未来がそうであると考えると、どうしても暗澹たる気持ちになってしまう。

・・・

たがここで混同してはいけないことがある。

インターネットという名の窓から覗き見ているその社会は、実際の身体が生きる世界ではない。

目で微細な表情の変化を捉え、耳で感情のグラデーションを聞き分け、そして肌で感じとる。私たちが実際に自分が生きているのはそんな生身の身体で生きる世界だ。

 

ここで書き出しに戻ろう。

社会は煮詰まってなんかいない。

煮詰まっていると感じているのはスマホやパソコン越しに覗く世界、即ち頭で捉えた世界の方だ。身体で感じる世界は今も昔もなんら変化はない。

そうして頭で捉えた世界を前提して行動してしまう事は往々にして誤った結果を生む事に繋がるものだ。それは過去の歴史が証明してきた事でもあるだろう。

 

そういえば儒教には大変良い言葉がある。

『修身斉家治国平天下』

まずは肉体たる自分の身を修めること。次に家庭を斉えること。そうすればやがて国も治まる。

ネットに漂う掴みどころのない社会を論じるよりも、まず目を向けるべきは身近な社会であるべきだ。

古来から継承されてきた思想にこそ未来を生きるヒントが隠されているように思う。

 

皆で身近な社会を大切にしよう。

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